下から吹き上げる風がとても強い

その風を身体全体で感じると、思わず目を閉じてしまう
眼を閉じると感じる眩暈すら今の私には心地良い


都心の10階建てビルの屋上
煩わしい柵を越えた縁の部分に、私は立っていた

遺書も無いし靴もきちんと履いているけど、投身自殺だ



特に嫌な事があった訳でも、恋人に先立たれた訳でもない
………まあ、両親は死んじゃったけど。10年くらい前に

ただ単に、飽きたのだ。そして全てが面倒で全てに面白味を感じない

これまで普通の中学を卒業して、普通の高校に行って、そこそこ良い感じに道を反れて
それでも汚水を啜ってここまで雑草のように生きてきた

だから、死ぬ時くらいは出来うる限りの迷惑を掛けてやろうと思った


場所は副都心。今は夜だから酔っ払いのサラリーマンとか、道踏み外して調子こいてる若者なんかが群がって生きている
人通りはかなりのもの。だけどこんな時間に屋上に人がいるとは思わないのか、誰も上は目に留めない
ここで落ちたら私の死体が汚した道の清掃代は親族に請求される

となるとまず私が死んだら警察は私の身の回りを調べるだろう
だけど親は他界してるし親戚とはここ十数年会った事も無い
住んでいたアパートは昨日出てきた

遺書も無いし学校での交友関係は広く浅くやってきたからいじめも無し
健康状態も至って良好。良好すぎて病院にかかる事も無い
動機もわからず捜査は難航、そのまま忘れ去られて行くか、両親の後追い自殺くらいで済まされるかもしれない

結果、あちこちに迷惑掛けまくって自殺って事になる
迷惑なら駅での自殺の方がいいかもしんないけど、死ぬ瞬間を他の人間に見られるのはあまり良い気分じゃない


「えーと……」

私はやり残した事は無いかを探していた。悲しい事に何も無い
あ、でもあと一回くらいチーズケーキ食べとけば良かったかなぁ。あそこの店のおいしいんだよなぁ

「でもま、いーか。チーズケーキさよーなら」

体の体重をそのまま前に倒す


情けなくも落ちる時の独特の感覚に耐えられず、私の意識は飛んでいった









「んぉ………」

ぼやけた視界がどんどん鮮明になっていく

「………天国、じゃないな。地獄かぁ。案外普通………今の御時世、何処も質素なんだなぁ」
「質素で悪かったね」

声か聞こえて、私は思わず飛び起きた

「………………悪魔?」
「いつまで死んだ気でいるの」
「死んで、ないよね?」
「チーズケーキ、買って来てあるけど食べるよね。死ぬ直前にあんな事言うくらいだし」

その人はパイプ椅子から立ち上がると、キッチンへと向かった

改めて周りを見渡してみる
質素だと思っていたのは、コンクリート打ちっぱなしの天井だった。
壁も同じグレーのコンクリートで埋め尽くされている。デザイナーズマンションと言うやつだろうか

けどただのマンションの割には妙に広くて、そのくせ物が何も無い
私の部屋みたいにテレビとかコンポとか特大のぬいぐるみとかは見当たらない
私が寝ていたベッドとパイプ椅子、サイドボード。それと少し離れたところにクローゼットがある
ガラステーブルには金属の長い棒が二本乗っかっていた。トンファー、というやつだろうか

ぺたぺたと言う足音が聞こえたと思うと、そこの住人らしき人はチーズケーキの皿とコーヒーカップが二つ載ったお盆を持ってきた
………中学生。いや。高校生か大学生くらいだろうか。華奢で背は低いけど妙に大人っぽいって言うか、落ち着いてるって言うか
服装は黒のボトムに黒のYシャツ。アクセサリーの類は着けていない
男はお盆をサイドテーブルの上に載せた

目の前にチーズケーキの皿が差し出される
私はゆっくりと皿を受け取ってフォークを手に取る

外側のフィルムを剥がして少なめの量をフォークで刺し、口に運ぶ

………おいしい


二口目にはさっきの倍くらいの大きさを刺して、大きく口を開けて勢い良く食べる
そこで、視線がぶつかる

「………見られると、食べにくいんだけど」
「そう」

短く答えて、コーヒーカップを口元に運び傾ける
それからまたこちらを見る

「食べないの?好きなんだろ、チーズケーキ」
「うん。好きだけどさ……」

どうやら私が食べ終わるまでずっと見ているつもりのようだ
ものすごく食べにくいけどこうなったら全部食う。食ってやる

ひたすら口を動かし続けてチーズケーキの消化に専念することにした
最後の一口まできっちり食べ尽くすと、皿をぐいと突き出した

「ごっそさん」
「満足した?」
「うん、まあ」

コーヒーを一口飲むと、独特の苦味が口の中に広がった
砂糖とミルクたっぷり入れないと飲めないのに

まあ口直しにはなったので、私は本題を切り出すことにした


「誰?」

単語一つではあったけど、その言葉だけで聞きたい事は十分に伝わった筈だ
私が質問を投げかけた相手はコーヒーを一口飲んでから口を開いた
飲んでいるコーヒーは同じく、ブラック

「随分な言い草だね。死ぬところを助けてやったのに」
「見てたんだ。悪趣味だね」
「僕は群れてる奴等を上から見下ろすためにいつも夜にはあそこのビルにいるんだ。先に来てたのは僕だし勝手に飛び降りようとしたのは君だ」

言っている事が正論なので口を挟む事が出来ない
口を噤んでいると、今度は向こう側が質問を投げかけてきた

「如何して死ぬつもりだったの」
「別に、理由は無い」

思っていた通りに答えると

「命を棄てることに恐怖は無かったの」
「別に……あっても無くてもいいかなぁって。あんまり要る物でもないかなぁって最近思い出してきてたから」
「じゃあ、それ僕に頂戴」







「………は?今なんつった?」
「だから、君の命を僕に頂戴って言ってるの。どうせ要らないんだろ?」

確かに命は要らないと言った

だから、それをくれと目の前にいる人は言っている

「…ごめん、意味が分からない」
「君の命は僕の物。つまり君をどうするのも僕の自由って事」

ものすごく当たり前のように言っているが、一般的な思考から考えるとかなり異常だ

「何でいきなりそんな事を?」
「興味が沸いた。ただそれだけだよ」

まるで何気ない日常会話のように、素っ気無い口調で言われた

………よく考えたら、何で私はここにいるんだろう
飛び降りたと思ったのにどっかに連れて来られてるし、チーズケーキ食べてるし、命くれとか言われてるし

「その代わり、君は僕の物である間ここにずっといても良い。食事はもちろん食べさせるしベッドも用意してあげる」


分からない事だらけだったけど

単純に興味が沸いた

この男が私をどう扱い、そしてどう棄てるのかを


「………いいよ」

口角を吊り上げて笑うと、目の前の男は意外そうに吊り上がった目を見開いた
それから私と同じ様に口角を吊り上げ笑う

「了承したからには途中で逃げたりしないでよ」
「わかってるって。信用しなよ」
「僕は初対面の人間を信用しないようにしてるんだ」
「随分捻くれて育ったんだね、あんた。親はどうしたのよ?」
「他人に詮索されるのも好きじゃない」
「ふーん。じゃあさ、紙とペンある?」
「………あるけど」
「ちょうだい」

ぴっ、と手の平を差し出すと、男はクローゼットを開けて中から鞄を取り出した
中から何かを取り出してこちらへ歩いてくる

差し出してきたのはリングノートと万年筆
私はそれを受け取って、ノートの新しいページを開き万年筆のキャップを開けた

そのノートにわざと男からは見えないように隠しながら書いていく

「よし、と。これで良いか」

リングノートから文字を書き殴ったページを破り、それを男に見せる

そこにはこう書いてある






誓約書


私、は命を貴方に捧げます

貴方を置いて逃げる事も、貴方に抗うことも、貴方の命を奪う事も致しません




以上





「どう?これで満足?不満なら署名入れて血判でも押してやろうか?」
「………本気みたいだね」
「本気じゃなかったらこんなもん書いたりしないね」
…君の名前だね」
「呼び方は何でも良いよ」

男はその紙をサイドテーブルの上に置いた
そして、私の寝ていたベッドの上に乗ってくる

座りにくいだろうと思って私は壁際に移動する
すると男も壁際に寄ってくる

「………って、え?」

右手がスカートの裾を掴んだ

そこからの動きは速かった



「没収」


私がスカートの中に隠していた拳銃を奪った


「拳銃はあまり良い殺し道具じゃない。殺した時の肉を裂いて骨を砕く感覚が全く感じられないだろ」


男は拳銃を興味の対象から外したようで、無造作にその辺に投げ捨てる
乱暴に投げ出された拳銃は回転して壁に当たった

それを気に留めることも無く、男はサイドボードにあった何かを手に取った

バタフライナイフだ


「僕の名前は雲雀恭弥。好きに呼んでくれて構わないよ」




これが、私と雲雀恭弥の出会いだった