「久しぶりね。その名前を呼ばれるのは」
「久方ぶりの再会なんだ。もっと驚けよ」
「………………っおわぁぁぁぁぁ!!びっくりしたぁ!マジびっくりしたぁ!!どれくらいかって言うとマジびっくりしたぁー!!!」
「………鬱陶しいな」
「アンタの要望に答えてやったんだけど」

これから人通りが激しくなるから、と水撒きをしていると。指名手配犯が目の前にいた
と言っても常連の一人。名前は高杉晋助

いつも唐突に現れ、いつの間にか去っていく








水を撒いていた柄杓を手桶に戻し、立ち上がり高杉に向き直る

「それで、長州のお侍さん。何の用?」
「随分つれねぇ言葉だな。夜まで暇なんだろ?」
「こうして水を撒いている人に暇と言うか」

私がそう言うと、高杉は酒瓶をの目の前に差し出した
軽く酒瓶を揺すると中から液体の音がする

「付き合えよ」
「幾ら?」
「時間外だろ」

つまり、金を払う気は無いと言う事だ

「歌舞伎町の女王がタダで同伴か」
「誰が女王だって?」
「私。よろず屋のちっちゃい子が言ってた。私がほんとの女王だって」
「歌舞伎町にガキが出入りするたぁ世も末だな」
「アンタみたいなのが出てくる辺りで世の中相当いかれてると思うけどね」
「違いねぇ」

高杉は口角を上げ特有の笑みを浮かべる
顎に手を当てるのは、彼の癖なのだろうか

「近くの河原に散歩に行こうか。亥中までなら付き合うよ」
「店を休む気は無ぇみたいだな」
「他に稼ぐ場所が無いからね」
「時間が惜しい。さっさと行くぞ」

踵を返し歩き始めたので、私も小走りで追いかけて高杉の左側に並ぶ

「………余り左側に着かれるのは好きじゃねぇんだが。折角美人が横に並んでも顔が見えねぇ」
「だと思いますよ。だからこそ左に着いたんですから」
「それでよく客商売やってけるな」
「普段はもっと客に媚びてるので」

そうでなきゃ『歌舞伎町の女王』なんて言われない





河原に着くと、もう夕日が見え始める頃だった
浅瀬の川では子供が水遊びをしている
それを温かな目で見守っている母親

そろそろ親子仲良く家路につく頃だろうか

ぼんやりとそんな事を思っていると、いつの間にか私の左側に座っていた高杉が同じく河原に視線を向けたまま口を開いた


「『自明の世界』って言葉を知ってるか」
「随分仰々しい表現だとは思うけど……初耳だわ」

自明、とは言うけれど。世界で分かりきっている事なんてあるのだろうか

何一つとして分からないからこそ人は失敗するのではないのだろうか


「俺も最近読んだ本で初めて聞いた。俺達は日々働き、家族や仲間と過ごし、趣味に打ち込み、同じ様なことを繰り返しながら自分の取り囲む世界の『自明性』ってもんを日々確認してる。それを『自明の世界』って言うらしい」
「きっとそれは無意識にやってる事だから、いまいち分かりにくいわね」
「俺はそんな御託はどうだっていいんだよ」


「そいつが言うには、『自明の世界』ってのは脆弱で容易く壊れる物なんだとさ」
「分かりきっている事なのに?」
「分かりきっている事だから壊しやすいんだよ」

目線を、川から子供に移す
子供は川の水を飲み、親と楽しそうに談笑している


「例えば、だ。あの小川に毒を流すだけで『自明の世界』は崩れる。子供が狂ったように暴れ、呼吸を止められ、親が一気に狂乱状態になる」
「……想像するだけでぞっとするね」
「俺は想像するだけで滑稽だと思うがな。最高の喜劇だ」

先程とは変わり、小さく声を出して笑った

「………ま、そんな血生臭いのは御免だけど、壊れていく自明ってのは悪くないね。大体『自明』って言葉自体があたしらを否定してる」
「一寸先は闇、ってか」
「そーだねぇ……良い話も無いし、いい加減結婚して引退したいんだけどさ」
「太夫なら相手なんざ腐るほどいるだろう。酉の市の売れ残りって訳でも無ぇだろ」
「選択肢は沢山あるけど満足する選択肢は無いんだよ」

幕府の官僚、職人、他惑星の皇子(係長っぽい)
どれもこれも将来が見えて面白くない。それこそ『自明の世界』ってもんだろう

「お見合い結婚でもしようかなー」

子供欲しいし。と付け足すと、珍しく高杉が目を見開きこちらを見た
先程から横顔ばかり見ているけど、やっぱり整った顔をしている

「…以外だな。前に恋愛結婚がしたいと言っていたのに」
「『恋愛とは、ただ性欲の詩的表現を受けたものである』……ある作家さんの言葉です」
「誰かが落ちぶれる様ってのは見てて気分が良いもんじゃねぇな」
「酷い言い様ですね」
「安定した生活を求めるってのは俺にとっちゃあ落ちぶれたも同然だ」

安定した生活からかけ離れた奴にしてみればそうかもしれない

「そりゃあ、明日がどうなるか分からない生活の方が楽しそうだけどさ。そんな相手いなさそうだし」
「誰か忘れてんじゃねぇのか?」

今度は私が驚く番だった
いつもの高杉の笑み、顎に手をやる仕草も変わらない

「………本気?」
「本気だ」

御猪口を二つ取り出して、酒瓶から酒を注ぎ始めた

「退屈はさせねぇ」
「……だろうね。息つく暇も無さそうだよ…子供とか産んでも平気で棄てそう」
「俺の遺伝子が入ってるならしぶとく生き残って俺の首でも獲りに来るさ」

酒を注いだ御猪口を一つ、私に渡した
透き通った液体に、真ん丸な月が映る

そこで初めて、辺りが暗くなっていたことに気付いた

高すぎは自分の御猪口にも酒を注ぎ、それを私の前に掲げてから自分の口元に運び飲み干した


、俺の所に来い」


不覚にも、その笑みに惹きつけられた


御猪口に注がれた酒を一気に飲み干し、空になった御猪口を高杉に押し付けた

見上げると、月明かりで照らされた高杉が満足そうに笑っていた




「さっきお前が言ってた作家の言葉なら、俺も聞いた事がある」
「え?」
「そいつが言うには、『結婚は性欲を調節することには有効であるが、恋愛を調節することには有効ではない』らしいぜ」
「へぇ……」

急に手を引かれ、歌舞伎町とは逆の方向に歩き出す


「悪いな、俺は性欲も調節出来なさそうだ」







歌舞伎町の女王は、全てを棄てて新たな非自明の世界へ