には、毎晩部屋を抜けある場所に出向く習慣がある。
暗く、明りの無い図書室。
明りの無い図書室に赴くのは、当然本を読むためではない。
目的は、毎夜その場所にいる人物の為。
戸にはしっかりと鍵が掛けられている。几帳面な委員長の性格ゆえだ。
侵入口は、古く緩んだ鍵のかかる窓。
いつもの慣れた手つきで窓を開けると土を払い、室内へと降り立った。
「やっぱり、今日もいた」
窓際に座り、壁に寄りかかる影。
雲が晴れて月明かりがその影を照らした。
図書室という空間の中でその姿を見ると錯覚してしまいそうになるが、そこにいたのは同級生の顔を模した男、鉢屋三郎であった。
「物好きだよね、こんな暗い所に毎晩来るなんて」
鬱蒼とした書庫とは不似合いな明るい声が響くと、三郎は視線を自身の正面にある本棚に向けたまま普段よりも幾分か穏やかな声を発した。
「………ここだけだ。私の知らない雷蔵がいるのは」
その言葉に空気が僅かに揺れたのを、お互いに感じながらも敢えて言葉には出さない。
「私が図書室に入り浸るのを、雷蔵は嫌がるんだ。自分の所にばかり居らず他の人の所へ行けと」
が三郎を見かけた時は、必ずと言っていいほどその隣には雷蔵がいた。
三郎が雷蔵に友情を越え友愛や崇拝の念を抱いている事を、は知っている。
常に二人が一緒に居るのは、三郎が行く先々で雷蔵について回っているからだという事も。
雷蔵はそれを拒まず、持ち前の心の広さから三郎を受け入れた。
三郎の思いをどこまで理解しているまでは分からないが、雷蔵はおそらく三郎の全てを受け入れるだろう。
どこかにそのような確信があった。
自分の入る余地が無い絆がある事も、全て気づいているのだ。
「………三郎は、手が大きい」
脈絡のないその言葉に三郎は一瞬その言葉の意味を測るが、その真意までは読む事は出来なかった。
「雷蔵より声が低い。身体が細い。背もほんの少しだけ高い」
次々と挙げられていくのは、三郎自身も気がつかないような同級生との違い。
自身では雷蔵と完全に同じ姿に変装していると思っていた。実際、大半の人間は三郎と雷蔵を見分けられない。
しかしは事も無げに三郎と雷蔵の相違点を指摘する。
三郎は目の前に居る女を恐ろしいと感じると共に、どこか安堵するものがあった。
見分けて欲しくないのに、何処かで自分自身を見て欲しい。
全く正反対の思考が同時に存在する三郎の脳内を見透かしているかの如く、は言い放った。
「私は三郎と雷蔵を間違えたりしない。いくら変装したって全然違うもの」
「……」
「何で雷蔵なの?先に会ったのが私だったら、私の変装をしてくれたの?私じゃ代わりにはならないの?」
矢継ぎ早に言葉を告げるは、自分の言葉など求めていないのだ。
ただ、自分の思考をの一端を零しているだけ。
それを悟ると、三郎は自分の中で何かが冷えていくのを感じた。
「ねえ、どうして」
生理的に滲んだ涙が月明かりに照らされると三郎は自嘲するような笑いを見せ、低く抑えた声で呟いた。
「…泣いてどうにかなる程度の思いなら、最初から捨てているさ」
「……三郎なんか大嫌い」
きつく三郎を睨みつけると、その場に立ち上がる。
乱暴に涙を拭うと、は侵入してきた窓から外へ飛び出した。
図書室に一人残された三郎は、先程までが座っていた自身の隣を見つめた。
「…………」
偽りを言葉にした所で、燻る思いを消す事が出来ない事も分かっていた。
彼女は自分と同じだ。叶わない思いなど棄ててしまいたいと願いながら、後生大事にその思いを抱えている。
棄てられるものはとうに棄ててしまっているのだ。そして残った思いだからこそ、燻り身体を焼き続ける。
自分の心を受け止めてくれたのは雷蔵だが、自分の心を一番理解しているのはかもしれない。
「けれど、私は」
発せられた言葉は誰に届く事も無く、書庫の隙間に溶け消えていった。