「俺は人を愛しているんだ、だから、君も俺を愛するべきだよね」
彼の言葉は普段、愛する全ての人に向けられている。
しかし今日に限って言えば、それは一人の人間を対象にしている。
だからといって、それが届くという事とは別問題である。
「………」
煙草を灰皿で揉み消すと、彼女は静かに携帯を開いた。
迷い無く通話ボタンを押すと、すぐ下にある1のボタンに手を掛けた。
「待って待って待ってその無駄の無い動きも思い切りの良さもすごく魅力的だけど一旦落ち着こうか。1と0で構成される電話番号に掛けるのは止めようか」
「1と9でもいいけど」
「あれ、それなんて死亡フラグ?」
大学の講義の無い空き時間、撤子は昼食を取るため大学近くの池袋にあるカフェに来ていた。
最近お気に入りのベーグルと温かいコーヒーを前に表情には出ないもののは上機嫌になっていた。
いざ食べようと思った瞬間、春先でもファーコートを着る兄の元同級生を見るまでは。
彼は当たり前のように自分の向かいに座り、先にレジで注文していたのか運ばれてきた紅茶を一口飲むと先程のような言葉を並べ始めた。
「……何で池袋にいるんですか、折原さん」
「俺が池袋にいたら何か問題でもあるの?」
「…兄さんが怒るから。私の目の前にいないでください。巻き込まれたくないです」
「あはは、それは無理な相談だよ!」
臨也は容姿だけを見ると端麗で見る者の目を引き付ける。が、そんな事はにとってはどうでも良い事だった。
「私は普通の生活がしたいんです。ただでさえこの苗字のせいで散々トラブルに巻き込まれてるのに」
平和島、という名前は池袋では有名である。
トラブルメーカーの兄と芸能人の弟を持つは、昔から二人の起こす騒動に巻き込まれてきた。
「なら、折原って苗字にでも変えようか?」
「面倒なことになりそうなので結構です」
臨也の言葉を軽く受け流すと、スモークサーモンのベーグルに噛りついた。
もごもごと咀嚼をすると、視線だけを正面に座る臨也に向けた。
手早い動きで携帯を操作していた臨也だが、の視線に気付くと笑みを浮かべた。
「……臨也さんは、兄さんの事が嫌いなんですよね」「ん?そうだね。大嫌いかな」
「…私、顔だけなら兄さんや幽に似てるって言われるんですけど」
「実際似てると思うよ。兄弟だって言われて納得できる位には」
臨也はの言葉を肯定すると、普段通りの皮肉混じりな笑みを見せた。
「…なら、私の顔なんか見たくないんじゃないですか?」
「確かにその顔は嫌いだよ。目元や鼻筋なんかはシズちゃんとうり二つだ」
「…だったら」
の目の前に手のひらが差し出された。
反射的には口をつぐむ。
それは何かを催促するような手つきではなく、むしろの顔を隠すようにしている。
「けど、首から下はすごく好みだ。スタイル良いよねちゃん」
「ここまで潔い下種初めて見ました」
無表情のままそう言い放つと、はコーヒーに口を付けた。
「首から下を愛するって事は、俺はある意味新羅と似たような趣向なのかもしれないね」
「…それで、今日は何の御用なんですか」
これ以上話しても意味が無いと判断したは、臨也の言葉を聞き流すとそう呟いた。
臨也はその行動を咎めることも無く、不快に思うこともせず事も無げに言い放った。
「用が無いと来ちゃいけないのかな?」
「いけないですね。なるべく関わりたくないもので」
そんな拒絶の言葉も臨也は気にせず、その整った顔で柔らかな笑みを見せた。
得体の知れない相手に、は能面のように無機質なその表情を僅かに歪ませた。
「あはは、嫌われたものだね」
「……兄さんへの当て付けのつもりでしょうけど、迷惑なんです」
その言葉が臨也の耳に届いた瞬間、臨也は
を揶揄するような、それでいてどこか不安を煽るようなその表情は、兄同様にも嫌いなものであった。
「わかってないな…」
日の光を浴びていない痩せた白い手が伸びると、指先がの頬に触れた。
「確かに俺は、人がくだらないと思うものや最低だと揶揄するものに楽しさを見出だす男だよ」
眠そうに僅かに閉じられた眼が反射的に見開かれる。
兄を反面教師とした妹の、垣間見える心の機微に、臨也は内心ほくそ笑んだ。
「だけどね、俺がこうやって気に掛け……」
ごしゃあ
座っていたのがテラス席だったのがある意味幸運だった。
弧など描かず一直線に投げられた自販機は、他の物に当たることなく臨也の側頭部に直撃した。
池袋でこのような光景が見られる場合、その場には必ず一人の男がいる。
脱色した金髪。バーテン服とサングラスを身に纏う細身の長身。
「に…触んじゃねぇ!!」
この異様な光景に動じることもなくコーヒーを口に運ぶの兄、平和島静雄である。
「……シズちゃんてさぁ、犬並の嗅覚してるよね…俺がちゃんと会ってまだ10分くらいしか……」
そこではっと気付く。
無言で額から血を流したままベーグルの最後の一口を口に放り込んだを見た。
「…私は兄と弟を反面教師にしてきました。なので感情の赴くままに行動する事も何の感情も持たず全てを受け入れることもよしとしません」
携帯電話を開き操作をすると、そこにはメールの送信画面が映し出される。
最後のメール送信相手は『平和島静雄』
「だから黙って救援要請しました」
席を立つと、ゆっくりと兄である静雄に歩み寄った。
「兄さん、仕事忙しいのに来てくれて有難う」
「気にすんな…それより、お前は離れとけ」
「うん」
短く返事をすると、静雄に背を向けた瞬間、全速力で走り出した。
臨也がナイフを無駄の無い動きで振りかぶったのと、先程までが座っていた椅子で静雄がナイフを受けとめたのはほぼ同時であった。
「…はぁ」
カフェが見えなくなるまで走ると、はその場にしゃがみ込んだ。
通行人が何人か振り返ったが、今のにはそんな事を気にする余裕は無かった。
「………」
あの場で冷静に対処出来た自分を褒めてやりたかった。
の頭の中には、様々な感情と臨也の言葉で埋め尽くされていた。
兄と弟に囲まれて育ったにとって、歪んでいるが率直に思いをぶつける折原臨也の存在は未知そのものだったのだ。
先程下種だと揶揄した言葉に倒錯する程に、は混乱していた。
これが嫌悪なのか恋なのか、今までのの人生経験では知る事など不可能であった。
今のには、ただ臨也が触れた自身の頬に手を抑えながら蹲る事しか出来なかった。
様々な恋愛感情が交錯する池袋にまた一つ、酷く歪んだ恋が始まろうとしていた。