場所は東京、時期は茹だる様な灼熱地獄が続く八月初頭
今回の始まりは裏通りのおんぼろ事務所ではなく、表通りの華やかな探偵事務所から始まる
『榊探偵事務所』という無駄な装飾の施されたプレートが掲げられたドアを開けると、代理所長の跡部景吾が気だるそうにスプリングの効いた柔らかなソファーに腰掛けている
その手にはB5サイズの紙が数枚、ホッチキスで留められている書類
事務所の中はクーラーががんがんに効いていて、年代物の蓄音機からクラシックの音楽が流れ、至る所に薔薇の生花が飾られている
すると、隣の職員休憩室から榊事務所職員の一人である忍足侑士が顔を出した
「跡部ー麦茶冷えたけど飲むかー?」
「飲むかんな貧乏臭いもん。アイスコーヒー持って来い。インスタントやドリップ持って来たら給料引くからな」
そう言い放ち、跡部は手に持った書類を捲り始めた
その後数分間はサイフォンの音とクラシックの音、それに時々書類の捲る音が混じった
「出来たで。ガムシロとミルクいるか?」
「いや…」
「て、何見てるん?お前今担当してる仕事なんかあったか?」
忍足は跡部の手から奪うようにして書類を取った
「えー…七月二十四日、事務所で一日を過ごす。中から何かの爆発音数回。カメラが五台中二台破損…」
「返せ!!」
ぼーっとしていた跡部が、手から書類が無くなっていた事にようやく気づいた
跡部の手をひらりと避け、机に腰掛ける
「七月二十五日、仁王雅治・柳生比呂士と共に外出。手には網と使用意図のよく分からないロープ。麦藁帽子に首にはタオルという出で立ちで街とは逆の方向へ向かう」
「読むな!!」
跡部が書類を取り返す前に机から降り、跡部と忍足は机を挟む形で対峙する
「七月二十六日、土だらけの姿で事務所に戻ってくる。手には猪らしき動物を抱えている」
「俺のだ!!」
回り込んできた跡部と同じ方向に走り、さっきとは反対の位置で向き合う
「七月二十七日〜三十一日、幸村探偵事務所に見つかり、捜査不可能」
「いい加減に…」
「お前が好い加減にせぇや!」
忍足は背後にあったソファーからクッションを手に取り、跡部の顔面めがけて思いっきり投げつけた
「何やのあんた!珍しく真面目に書類に目通してるかと思ったらただのストーカー行為やないか!!お母ちゃんあんたをそんな子に育てた覚え無いで!」
「誰が母さんだー!!俺の母親はんなオタク面してねぇよ!!!」
「ちゅーか、わざわざこんな調べさせてどうするつもりなん?」
忍足は跡部の持っていた書類を持ち、シュレッダーの電源を入れる
「どうするって……一応、婚約者の行動は知っておくべきだろ」
「言うてる事おかしいで。そんなみみっちい事しとらんと、自分で直接会いに行ったらええやん」
数秒の間
「その手があったか!!」
「は?お前何言って…」
『本日、東京の最高気温は36度。蒸し暑い一日となりそうです』
テレビから聞こえてくる声に苛立ちながら、俺はひたすら掃除を続けていた
さっきは掃除機をかけて、今は来客用のテーブルを拭いている
先輩はいつもの定位置であるソファーに寝転がり、仁王先輩は珍しくハードカバーの本を読んでいる
ブックカバーがかかっているので何の本かはわからない
真田副所長はさっきから電話で幸村所長と何か話している
柳生先輩と柳先輩は二人で前の依頼料の請求額を決めるためあーだこーだと話し合っている
ほんとはブン太先輩と三人でなんだけどブン太先輩は内容がほとんど分かっていないようだった
俺があの三人みたいに仕事が出来るようになるのはいつになる事だろう
ここに来てから得たものって掃除の技術と野生動物の捕獲の仕方だけのような気がする
小さく溜息をつくと、それを隠すほどの大きな声で先輩がいきなり歌いだした
「ぱっちょんぽ、もーいのいのいちゃかれたぱっとんぱんこらけっとんとん♪のーら、ちゅれれーろっとんぽらぽらぺっとんぷーろらったんたん♪」
何でよりにもよってその歌なんだ
俺は背後にいる先輩の方を向きもせず話し掛けた
「先輩、いい加減その歌歌うのやめてください。頭から離れなくなってきてるから」
「あーはーはー。頭から離れなくしてやる。このクソ暑い中で半濁点まみれの歌を歌い続けてやる。とうっ」
すると背中にずしっと重みがかかった
多分先輩が上に乗っかってるんだと思う
「先輩、暑い」
「私も暑い」
「何じゃ二人して。俺も混ぜろー」
更にずしんと重みが増す
声からして先輩の上に更に仁王先輩が乗っかったんだろう
「って重い!先輩達重い!!一番下きついっす!」
「いやいや、上下からあっためられてる真ん中のほうが意外ときついよこれ!!暑い暑い!!」
ズバゴァーン!!!
老朽化が進んでるドアを誰かがものすごく乱暴に勢い良く開けた
壊れたらどうすんだおい
「あいからわ……相変わらず暇みてぇだな、この事務所は」
誰だか知らんけどお客さんが来たみたいだ
てか『あいかわらず』噛んでるし。そんな難しい言葉でもないのに
「あー、あほべだ」
先輩が視線を入り口に向けそう言った
あほべ……ああ、表の探偵事務所の馬鹿所長か
「…………近ーい!!!!」
跡部さんの一撃でスターンとだるま落としみたいに上の仁王先輩だけが横に飛んだ
「何の用さ。そっちの事務所には行かないかんね」
先輩は体勢を変えて肩車みたいに俺の肩に乗っかった
……いい加減暑苦しくて嫌なんだけどなぁ
「俺は気づいたんだ。俺達はもっと分かり合うべきだと思う」
「知らん。おうち帰ってママのおっぱいでもしゃぶってな」
「その言い方古いっす」
「じゃあ父ちゃん」
「気持ち悪いっす」
そんな俺達の会話を遮る様にまた跡部さんが喋り出す
「だからこれからどこかに出掛け「やだ」
更にそれを遮るように先輩が跡部さんを睨み付けて言った
うっと一瞬たじろぐ跡部さん
「なら…なら……」
「おうどうしたハナタレ坊主。ネタ切れか?ん?」
たいして年齢違わない。つーかきっと先輩のほうが年下
「なら、俺はここでバイトをする!!!」
「「うえええええ!?」」
先輩と仁王先輩が同時に叫んだ
「いいんじゃない、それ」
「ゆっ、幸村!?」
入り口から携帯電話を片手に持った幸村所長が現れた
真田所長はまだ受話器を持ってるから、きっとずっと喋ってたんだろう
「話は受話器越しに聞かせてもらったよ!うちの事務所に入りたいんだって?」
「……あ、はい、そうです」
跡部さんは少し考えて、話の流れから幸村所長がこの事務所で一番偉い人なんだと判断したみたいだ
「ちょ、ちょっと!待っておユキ!!私が何のためにあの家出たと思ってんのさ!このへたれベルバラと一緒に生活したくないから出てきたんだよ!!」
あ、そういやそうだった
婚約発表の時に家出して仁王先輩と逃げてきたんだっけお
「いいじゃないか、楽しそうだし。文句があるならいいよ?出てって貰っても」
「うっ……」
今度は先輩が詰まる番だった
「決まりだね。よかったね赤也、君の後輩が出来たよ」
「あ、そ、そうっすね」
「バイト代は完全出来高制だから収入は安定しないけど、頑張ってね」
幸村所長がこの上ない笑顔で跡部さんにそう言った
「そうだ、」
「…あいよ」
嫌そうに返事をした先輩に近づき、小さい声で話し始めた
跡部さんには聞こえなかったみたいだけど、俺は確かに聞いた
「君が新人教育係ね。行くとこ行くとこ好きに引きずり回して構わないから」
「うぉっけぇぇぇい!!!」
先輩はテンションMAXでズバーン!!と音がしそうな位勢い良く親指をと突き出した
「じゃあ、後はよろしくね。、これ仕事だからよろしく。五人来いって言われてるから適当に選んで」
幸村所長はそれだけ言って帰って行った
そして入れ替わるように誰かが入ってきた
確か跡部さんの事務所にいたメガネの人
「あのー、ここにアホ来てませんか」
「来てるよー。バイトするんだって」
「は!?バイト!?」
「うん。私と一緒にいたいんだって。だから今日は一緒にいるんだ」
さっきとはうってかわって最高の笑みでそう言った
……これから何するつもりなんだろ。考えただけで不憫になる
「…どういう事や?全く状況が把握出来んわ」
「あー、えっと、つまり…」
俺はメガネの人(忍足さんと言うらしい)に状況を掻い摘んで説明した
「ほー、成る程………跡部」
「何だ」
「晩御飯はいつも通り七時やからな。今日の晩飯はジャージャー麺や」
「ああ、肉味噌は辛口にしたら許さん………っておい!!話聞いてたのか!俺は今日からこっちで生活するんだ!!」
榊探偵事務所って忍足さんが自炊してたのか
てっきり高いレストランで贅沢三昧だと思ってた
「お前みたいなボンボンがこんなとこで生活出来るかい。三日もせんと帰ってくるわ」
「俺は絶対戻らねぇからな!!」
「あーはいはい。わかりました」
「………忍足さん」
「何や」
「多分、一日もしないで戻ってくと思います。あと、救急セットとか用意しといた方がいいっすね」
「……分かった」
忍足さんは何かを理解したようで、うんうんと頷いた
……損害賠償とか請求されちゃったらどうしようかなぁ